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恋人中心世界 (改作)


 冷蔵庫から冷えた桃の缶詰めを取り出しながら、ジンの声を耳で受け取る。何か私の知らない異国の音楽についての長い考察。蘊蓄とは違う散漫な感想の群れは、水族館でいつか見た小さな魚の群れのように、自在に向きを変える。ジンの声は音楽のように多彩で、聞くだけで耳に心地よい。それを発見したのは至極最近のことなのだが。

 缶詰めのリングプルをはずす。汁が少しこぼれて指にかかる。ひなびた匂い。懐かしい思いに身をしばしひたらせながら、指を舐める。予想通りの甘さに、指のまとう埃っぽさが混じって、なんだか嬉しい。予定調和を乱されることに私はいつも喜びを感じる。例えそれがこんな些細なことであっても。

 黄色いつやつやした肌を見せながら媚びるように重なり合う桃たちをフォークで突き刺す小気味良さは、ジンをほんの少し意図的に傷つける快感と似ている。ジンの怒りを無視してみること、同意してあげないこと、笑ってあげないこと。ジンの困った顔は、実は彼の持つ表情の中で一番セクシーで、私は欲情する。ごめんなさいね、許してあげる。半歩だけリードした優越感を味わうのは、格別に甘い楽しみだ。そう、この桃よりも。

 口を開けて、食べさせてあげる。とろりと柔らかい繊維のかたまりが、あなたの歯のあいだでグズグズに潰れてゆく様子は美しいに決まっている。唾液にまみれさせて、ジン。甘く、汁のたくさん出る、媚びた不埒なかたまりを罰せるのは、あなただけなのよ。そしてそう誘導するのは、私の役目。閉じた快楽の回路は、シロップの甘味のようにうんざりとしつこく、低俗においしいデザートだ。ジンといると、いつも私はデザートだけ食べては生きてゆけない人間の身体がうっとうしくなってしまう。

 生まれ変わったら何になりたい? と、たわむれに訊いたことがある。重そうな本から目を上げて、君は? とジンが目で問いかける。私? 私はあなたと一緒にいたい。何気ない恋人同志の会話の終わりは、愛を確かめあう退屈な幸福の中に着地するものだ。だけど、その時の私にサーヴィスはなかったはず。たとえ退屈でも、私の結論は一つでしかない。ジン、あなたと一緒にいたいの。そう、僕はよくわからない。でも、そうだな、音のようなものになりたい。音? 時代が変わっても、人が滅びても、どこかに音はありつづける。単独に、またはたくさんの音と共に。あなたって欲張りねと答えた途端に悲しくなる。ジンが音になるのなら、私は何になればいいのだろう。五線譜も大気も光さえも、ジンを抱きとめることはできないのだ。そしてジンはそれこそを望んでいる。その日から、想いをだぶつかせないことだけが私の課題になった。

 ステンレスのシングルベットの上で細い膝を抱いて、ジンは規則正しく桃を咀嚼する。そんなに何度も噛むものかしら? と、私はフォークで彼の唇をこじあけながら白い歯を覗き見る。いたずらを意に介さず、ジンはゆっくりと桃を飲み込む。ものを噛んでいるとね、と、彼は笑いを含んだ声で言う。そのたびに制裁を加えているような気がするね。死ねばいい、おまえなんか死ねばいいって。 噛みついて、味わって、唾液で汚し、身体に取り込むまでの、酷薄な快感。私はぞくぞくするくらい嬉しくなってしまう。そう思ってくれているの、ジン、私に対しても? 飲み込んで自分の一部にしたいと思いながら、型が残るまで噛んでくれていたの。殺してほしいと願いながら、味のある玩具になっていた夜が一息に報われる。それは両想いという妄想の至高の姿だ。

 だけど。ふと私はシーツについたシロップのシミをみつけて口をつぐむ。だけど、口に出してはいけない。ジンによって否定されても肯定されても、この胸の弾む妄想は半減してしまうから。そうして形を与えられ、限定された妄念は行き場をなくして腐ってしまう。そうして出来てくる執着とよばれる感情ほど、厄介な代物はない。

 ああ、こぼしてしまったね、シミになっている。私の視線をおって、少しも悪びれずにジンが言う。執着。愛に擬態して指先から視線までねばねばと汚染してしまうある種の感情を、私は心から恐れている。執着は現在に蓋をする。そこにあるのは、過去の儚い思い出と、未来の不実な約束だ。常に満たされない焦燥と恨みに身を焼きながら、狂的な記憶力で過去の逐一を引き合いに出しながら、美しくも楽し気でもない視線で恋人を縛る女が、そういえば、いた。ジンの昔の恋人。粘ついた口ぶりと態度で、しかしその女はしきりに一つのことを示そうとしていた。わたしは、あなたを、愛しているのよ、こんなにも、わかるでしょう、と。

 唇の端から滴る蜜が、ジンの白い顎を伝っている。私はそれを舐めとりながら、祈るように思う。美しいジン、あなたを汚すのは私の暴言でも体液でもない。執着の持つあの醜さで、あなたの存在を曇らせないように。私はあなたを、今現在、ただ、愛したい。


 しかし、それはただのレトリックなのかもしれない。


 桃をすべて食べ終わると、デジタル時計は午前一時を示している。これからよく軋むベットにもぐりこむのだけが、私たちに残された今日の仕事だ。きっと寝苦しくて私は夜中に、熱く火照った足で冷たいステンレスのパイプを探ることだろう。そして嘘のように静かなジンの寝顔を見て、なにか得体の知れないものに嫉妬するだろう。それから無表情に朝が来て、閉ざされた二人きりの円環が崩れ去ることだろう。ジンは当たり前のように外の世界に出てゆくのだろう、私を置いて、いつものように。残された空気は私にもジンにも無関係で、狭い部屋にこもった桃の匂いに、私はきっと泣きたくなるに違いない。だぶついた感情の墓場のにおい。私はあの女よりずっと狂おしくジンを搦めとろうとしているのだろうか。

 ジン、愛しいジン、私の毎日の、すべて。
 時間の流れに負けず、陽の光に悖らず、絶えず豪奢に捨ててゆく閉鎖された満足の亡骸をふみしめて、私、いつまでこうしているのかしら。ジン。





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